● 創世記18章16~33節から 「ただ一人の義人」 と題して語られたメッセージより。
□ 創世記18章16~19節 神の友アブラハム
アブラハムを訪れた旅人の三人のうち二人は天使、もう一人は主なる神でした。旅人たちはアブラハムに十分にもてなされ旅を続けます。行く先はソドム。アブラハムは道案内人として途中まで一緒に歩いて行きます。この見知らぬ旅人に対する 誠実なアブラハムの姿に主は心を動かされたのでしょう。主はこう考えられたのです。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」と。アブラハムを通して地のすべての国々を祝福しようとしているのに、その祝福の源であるアブラハムに隠しておいてよいのだろうかと考えたのです。そして19節にはアブラハムに対する主の思いが語られていきます。冒頭の言葉は原文で「わたしが彼を選び出したからである」。その後に、選び出した目的が記されていきます。「選び出した」と訳出されている言葉は、原語では「知るyada」という言葉です。口語訳聖書はそれを採用して、この箇所を「わたしは彼が後の子らと家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公道とを行わせるために彼を知ったのである。」と訳しています。彼を知ったとは「彼と深く交わって、知的にではなく体験的に知った」ということです。神が、深い交わりの中で私たちを知るのは、「私たちが神と一つになって、神の御心を為すためである」ということをこの箇所から教えられるのです。私たちと交わり、私たちを深く知られた神は、私たちにご自分の計画を示されるのです。アモス書3章7節には「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」と記されています。神は、ご自分が為そうとすることを親しいしもべに示さないではおれない方です。そのようにして、人と共に、人を通して、神は御心を為していかれるのです。あなたもまた、神の友です。信じますか。
アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、
彼は神の友と呼ばれたのです。 ヤコブ2:23
□ 創世記18章20~33節 主の前に立つ祈り
わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行っているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ(Ge18:21)。ソドムとゴモラの叫びは天に届いていました。それを確認するために、三人の旅人はソドムに行こうとしています。ここで「知る」と訳されている言葉はyada。彼らは自らの体験をもって知ろうとしていたのです。この時、ロトが住むソドムが滅ぼされようとしていることを悟ります。アブラハムは自分の思いを告げずには別れることができなかったのでしょう。二人の御使いがソドムに向かった後、「まだ主の前に立っていた」と記されています。一人残った主とは受肉前のイエス・キリストです。その立ち方は原文を見るとそのニュアンスが伝わってきます。主の顔に向かって立っていたのです。恐らく、言葉もなく沈黙のまま主の顔を見ていたのでしょう。アブラハムは近づいて語り始めます。「あなたは本当に、正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼし尽くされるのですか」と。もし50人の正しい者に5人不足したら。もし40人の義人がソドムにいたら。30人いたら、20人いたら、10人いたら…。ここで交渉は終わります。10人が5人になっても、5人が一人になってもソドムを滅ぼさないという主の心を悟ったからでしょう。確かに、ソドムにいる義人はロトだけでした(2Pe2:7~8)。一人の義人のゆえに神はソドムを滅ぼさない。この原則が二人のやり取りの中に影絵のように見えてきます。私たちは知らなければなりません。アブラハムが語っている相手とは、やがて十字架につけられる唯一の義なる方である主イエス・キリストであるということを。この方は、神とのあるべき正しい関係にある方、すなわち義なる方です。ソドムが不義のゆえに滅ぼされたように、アブラハムと語り合ったこの義なる方が、アブラハムの子孫となる私たちの不義を背負って十字架でソドムのように滅ぼされたのです。イエス・キリストは、人として世に生まれた「ただ一人の義人」でした。この方によって、私たちは救われました。救い主イエス・キリストがこの創世記にすでに啓示されているのです。
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。
それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。 Ⅱコリント5章21節
● 創世記19章1~29節から「神の言葉をたずさえて」と題して語られたメッセージより。
□ 創世記19章1~3節 妥協して生きるロト
アブラハムの天幕のあったヘブロンからソドムまでは60Kmほど。ロトは、アブラハムと別れた後ソドムの近くまで天幕を張ったと記されています(Ge13:12)。ソドムに引き寄せられていくロトの姿をここに見ることができます。やがて、町の城壁の中に住むようになっていきます。しかも、ソドムの門の所に座っていたとは、ロトがソドムの町にすっかり溶け込んでいたということです。娘もソドム人と結婚することになっていたようですから、ソドムの人たちとの関係も深くなっていたということです。遊牧生活を続けていたロトにとって町の生活は魅力的だったのでしょう。聖書は、神を崇めない「偶像礼拝」の世界に次第に入って行く人間の姿を数行で記しています。新約聖書を見ますと、そんなソドムにロトは心を痛めていたことが分かります。「この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行いを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。(2Pe2:8)」と記されています。つまり、町の罪を知り、心を痛めながらもそこに根を下ろし、妥協して暮らしていたということです。少なくとも13年間もそんな生活が続いているのです。
私たちの信仰生活に妥協はないでしょうか。良くないと思いながらも抗うこともなく世に流されていることはないでしょうか。パウロは、「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(Ro12:2)」とローマの教会に書き送っています。原文は受動態で記されていますから、神によって変えられなさいと言っているのです。流れに抗う力は神から与えられます。いのちある者はさかのぼることが出来るのです。アブラハムの神を見失い、さかのぼるいのちを失っていたロトですが、神はこのロトに心を留められるのです。これが神のあわれみです。
心の一新によって自分を変えなさい。 ローマ人への手紙12章2節
□ 創世記19章4~14節 差し出された神の救いの手
ロトは突然の訪問者である二人の御使いを見るなり、立ちあがって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝みます。ソドムの人々にはない香りを二人に感じ取ったのでしょう。ロトの中に聖なる神を求める心がまだ死んでいなかったです。ロトは二人を迎え入れます。食事を終えてくつろいでいた時、夕暮れに町に入ってきた二人の旅人を弄ぼうと、ソドムの若い者から年老いた者まですべての人が町の隅々からやって来て、ロトの家を取り囲んで迫ります。「彼らを良く知りたいのだ」と。ソドムの町は異常性愛の坩堝でした。旅人に危害が加えられると察したロトは、彼らの安全と引き換えに二人の娘を差し出そうとします。これもまた常軌を逸したことです。ロトは、この町に住むことで正しい判断ができなくなっていたのでしょう。このやり取りを聞いていた二人の旅人は、ロトを守ろうと家の中に連れ込んで告げます。「この町を滅ぼすために主に遣わされたこと」を。しかし神は、アブラハムとの約束を忘れません。約束の通りに、ロトの身内の者をみなこの場所から連れ出すように命じます。ロトは出て行き、娘たちの婿たちに告げて言います。「立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」と。しかし、彼らにはそれが冗談のように思われたと記されています。神から遠く離れた生活に染まっている者には神の恵み深い警告が分からないのです。これが、聖書が教えている「裁かれている」ということです。ヨハネ福音書はこう記します。「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。Joh3:18」と。神と共に生きる祝福から離れているソドムの人々は、その実をすでに刈り取っているのです。救いの本質をここに見ることができます。救いとは、神と共に生きる祝福へと救い出されるということです。これは全くの恵みです。あなたは救われている」という恵みを十分に味わっているでしょうか。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
ヨハネの福音書3章17節
□ 創世記19章15~29節 振り返えらずに行きなさい
夜が明ける頃、御使いたちはロトを促して言います。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」と。しかし、ロトはためらいます。ソドムの町で築いてきた財産や生活を捨てる決心がつかなかったのでしょう。そんなロトを、神はアブラハムとの約束のゆえに救おうとされます。聖書には、御使いたちが「彼の手と彼の妻の手と二人の娘の手をつかんだ」と記されています。原文では、単につかんだのではなく、ためらっていたロトと妻の手を、そして二人の娘の手を強く握りしめ続けていたことが読み取れます。神がつかんではなさないのです。ここに救いの本質を見ることができます。
そのようにして彼らを町の外に連れ出した後、旅人の一人が言います。「いのちがけで逃げなさい。後を振り返ってはいけない」と。後を振り返ってはいけないとは、ソドムへの執着を捨てなさいということです。最も大事な「いのち」を得たのだから、導かれたところでゼロから新しい生活を始めなさいというのです。太陽が地上に上った頃、ロトの一家4人は低地の最も小さな町ツォアルにたどり着きます。しかしロトの妻は、御使いの言葉にとどまり続けることができずに後を振り向いたのです。ヘブル語原文を見ると、ちょっと振り返ったのではなく「じっと見つめ続けていた」ことが分かります。ロトの妻は、御使いの言葉よりもソドムでの生活に思いを馳せたのです。命は救われたのに、心はまだソドムに生きていたのです。彼女は塩の柱になったと聖書は記します。
アブラハムとの約束のゆえにロトたちを救い出された主は、同じようにアブラハムの子孫イエス・キリストの執り成しのゆえに私たちの手を強く握りしめて続けて下さっている方です。そのようにして救われた私たちは自ら問わなければなりません。私は振り向うとしていないだろうか、私の心は今どこに生きているのだろうかと。
イエスは言われました。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」
マタイの福音書 6章21節