創世記17章15~27節から 「何の変哲もない人生の中に」 と題して語られたメッセージより

 

□ 創世記171517節   約束は二人に  

イシュマエルはアブラハムにとって一粒だねの息子です。86歳で授かった子供ですから、可愛かったに違いありません。それに妻のサライは不妊の女でしたから、アブラハムが考えていた「神が告げられた子孫」とはイシュマエルでしかなかったことでしょう。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように(Ge17:18)」とは、「主よ このままで結構です」というアブラハムの正直な気持ちでしょう。しかし、神の思いはアブラハムとは違っていました。神のご計画は、サライから約束の子どもが生まれることでした。神はアブラハムに言います。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。」と。サライからサラへと名を変えるようにアブラハムに命じられます。名前を改めるとは、「これからは新たな自覚をもって生きなさい」ということです。「高められた父」という名のアブラムが「多くの国民の父」を意味するアブラハムになったように、サライをサラに改めよとは、サライを「国々の母」とするという約束です。アブラハム契約はアブラハムとの契約でしたが、神はその一端をサラにも担わせようとしています。アブラハムとサラの二人を通してご計画を進めていかれるのです。サラもまた神の約束を受け継ぐ者とされたのです。

パウロは、アブラハムの子孫を「アブラハムの信仰を受け継ぐあらゆる国のすべての人(Ga3:6~9)」と解釈しています。神は、アブラハムの信仰を受け継ぐ私たちに至るまでの遠大な計画をいよいよ実行に移されるのです。これからのあなた方は、今までのあなた方であってはいけない。信仰者の初穂を生み出していくという自覚をもって生きなさい。二人に使命が与えられました。

 

それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。

                                   創世記 224

 

 

□ 創世記171827節   神の思いはあなたの思いよりも高い

妻のサラから子孫が生み出されるなど全く考えらず、「イシュマエルでよい今のままで十分だ」と思っていたその時に神は動き出されるのです。私たちの人生においても、かつて語られた神の言葉を遠い過去のこととして「もう今のままでよい」と合理的に解釈してしまう時、或いは、今の状態がずっと続いていくのだろうと諦めてしまった時に神が動き出されることがあるということを覚えておきたいものです。そういう目で、人生の旅路を見ていくことが信仰者にとっては必要なのです。神が動き出される時があるのです。

彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう(Ge 17:16)。それを聞いたアブラハムは平伏しながらも「笑った」と記されています。「平伏す」という信仰の行為をしながらも、心の中は不信仰で満ちていたのです。まさにそのような時に 神の時が満ちるのです。この二人に子どもが生まれるとしたら、もう神によるしかありません。神は、アブラハムが自らの知恵や能力の限界を超えたことを自覚するまで待ったのです。人間のわざではなく、「このことは、神以外には起こせない」とアブラハムとサラが心底思う時まで待ったのです。人間的な望みが全くなくなる時、その時が神がご自身の栄光を現す時です。ルカは、ナインの町のやもめのひとり息子が死んだ時のことを記しています。親族や隣人が最後の別れを告げ、深い悲しみの中で墓地に向かってひとり息子がかつぎ出された時、イエスが棺に手をかけて言われます。「青年よ。あなたに言う、起きなさい(Lk7:14)」と。すると、その死人が起き上がってものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返されたとルカは記します。ヨハネもまた記します。ラザロが墓の中に入れられて四日もたちもう臭くなっていた時、到底何も望めない時にイエスは言われます。「その石を取りのけなさい。もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見るとわたしは言ったではありませんか。(Jo11:40)」と。もう遅いと思う時があるのです。あの時ならまだ間に合ったのに、もっと若い時なら可能性があったのにと思う時があるのです。その時が神の時なのです。

 

わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、

わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。

天が地よりも高いように、

わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、

わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

  イザヤ書5589

 

 

創世記18章1~15節から 「決して遅くはない」 と題して語られたメッセージより

 

□ 創世記 181~8節  主を迎える

 アブラハムが割礼を受けた直後だと考えられます。ユダヤ教の伝承では割礼を受けて三日目の出来事とされています。もしそうなら 最も痛みが激しい時です。そんな時の出来事です。主がアブラハムに現れたのはマムレの樫の木のそば。この場所は、かつてアブラハムがロトと別れた後、主のために祭壇を築いた場所です(Ge13:18)。その場所に、アブラハムが目を上げてみると三人の旅人がアブラハムに向かって立っていました。聖書は、その内の一人を明確に主(YHWH)と記しています。「立っていた」とは、招き入れられるのを待っていたということです。アブラハムは地に平伏して「私のご主人さま、お気に召すなら素通りなさらないでください」と、走って行って主を迎え入れます。「お気に召すなら」は、原文では「もし、あなたの目の中に私が恵み(chen) を見つけたなら」と表現されています。旅人をもてなすストーリーの中に「恵みを与えてくださる主を迎える」という霊的な旋律が通奏低音のように流れているのです。そのもてなし方は尋常ではありません。「少しばかりの水、少しばかりの食べ物」と言いますが、いやいや家をあげての大変なもてなしです。サラはもちろんのこと、召使いたちを使っての準備であったことは明らかです。旅人として現れた主を、アブラハムは家族で迎えたのです。私たちは、恵みをたずさえて来て下さった主を迎え入れているでしょうか。主をお迎えするなら、たとい一人であっても、その場その時が主との豊かな交わりの時となるのです。教会なら、礼拝に集う神のしもべたちを互いに迎え入れ合う時に、一人ひとりの中に聖霊によって生きている主イエス・キリストを招き入れているということに気づかされます。私たちは主に招かれて礼拝をささげているのですが、互いに迎え入れ合うときに、一人ひとりの中に生きている主をお迎えしていることを、そこに主イエスとの豊かな交わりが形成されていることを忘れないでいたいものです。 

 

   これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。

                                             マタイ25章40節

 

□ 創世記 18章9~12節  今更と思う時こそ

食事が終わるころ彼らはアブラハムに尋ねます。「あなたの妻サラはどこにいますか」と。これが「主と二人の御使い」が訪問した目的の一つです。この時、サラはその人のうしろの天幕の入り口で聞いていました。天幕の中に居ながらも、会話が気になって外の様子をうかがっていたのでしょう。一人がアブラハムに語りながら天幕の中に居るサラに語っています。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。(Ge18:10)」と。それを聞いたサラは、心の中で笑ってこう言いました。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで(Ge18:12)」と。サラからもまた、アブラハムと同じように「不信仰の笑い」がこぼれたのです。この不信仰の笑いの意味は「もう遅いですよ今さら」と言うことです。サラに「良きしらせ」を告げるために主が現れましたが、良き知らせであっても「もう遅い」と思う時があるのです。もっと若い時なら良き知らせとして素直に信じることができたのに「今さら」と思う時があるのです。しかし、そこから神の働きが始まることを、今日のテキストは私たちに教えています。モーセが召されたのは80歳の時でした。その時までミデヤンの荒野で平和な遊牧生活をしてモーセが このまま一生を終えようとしていた時です。これから新しい働きを始めるにはもう遅すぎる思われる時に、神のプランがモーセを通して始まるのです。「国際協力の新しい風・パワフルじいさん奮戦記 (岩波新書)」の著者である中田正一氏は、農林省を1965年に退職してから、発展途上国への援助に本格的に取り組み始めます。普通なら、どのように人生を収束していくのかを考える時です。冒険をするなど考えられない時に神に召されたのです。中田正一氏は、退職後の四半世紀が人生で最も輝いていたと記しています。「今更」と思う時、その時が神がお入り用になる時かも知れないのです。

 

 サラはなぜ「私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに」と言って笑うのか。

 主に不可能なことがあろうか。                        創世記18:13~14

 

 

□ 創世記 1813~15節  在り得ないことから始まる救いの計画

主のみ旨を知らされていなかった妻のサラにも「救い主の系図の始まり」が告げられます。しかし、サラは信じることができません。心の中で笑うサラに、「なぜ笑うのか。主に不可能なことがあろうか。」と主は迫ります。サラは「笑いませんでした」と言って打ち消しますが、サラの心を知っておられる主はサラに真正面から対決します。「いや、確かにあなたは笑った」と。この後の二人の会話は記されていませんが、ヘブル人への手紙の著者は「信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。 (Heb 11:11)」と記します。サラもまたアブラハムと同じように信じたのです。その後、アブラハムとサラは、二人で「多くの国民の父と母になれ」との主の命令を担っていくのです。

救い主イエスの受胎も天使ガブリエルによってマリヤに告知されました。「あなたはみごもって、男の子を産みます(Lk1:31)」と。夫のヨセフにまだ何も告げられていない時でした。ヨセフは、身重になっていく妻を見て内密に去らせようと決めます。その時、主の使いが夢に現れて言います。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。(Mat1:20)」と。「救い主イエスの誕生」も「イエスの系図の始まりであるイサクの誕生」も、不可能を可能とする「神の介入」によってこの世界に入ってきたのです。「主に不可能なことがあろうか。」これは「どうしてそのようなことになりえましょう」と、信じることができなかったマリヤにも語られた言葉です。イサクの誕生によって始まる人類の救いの計画は、イエスの処女降誕と同じように「在り得ないこと」を可能にする神によって着々と進められていくのです。身近な者の救いに関して「どうしてそのようなことになり得ましょう」と望みを失うことがあるでしょう。しかし、主の介入によって、救いは着々と私たちの目の見えないところで進展しているのです。信じようではありませんか。

 

イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

                                               ヨハネ20章29節

 

 

 ヨハネの福音書20章1~10節から 「イエスの愛されたもう一人の弟子」 と題して語られたメッセージ

 

□ ヨハネ20章1~10節  このような者をも

 四つの福音書に共通する復活の記事は「空の墓」です。しかし、ヨハネは他の福音書記者と違って「空の墓」ではなく、「空の墓」に遭遇した弟子たちを記していきます。週の初めの日の朝、マグダラのマリヤたちはイエスに香油を塗ろうと墓に行きます。そこでマリヤたちが見たのは、確かに封印していたはずの石が取りのけられていた墓でした。それを見たマリヤは「誰かが、主を墓から取って行った(Jn20:2)」と直感したのでしょう。そのことを、シモン・ペテロと「イエスが愛されたもう一人の弟子」のいるところに知らせに行きます。「イエスが愛されたもう一人の弟子」とは、この福音書を書いているヨハネ自身です。ギリシャ語原文を丁寧に訳すと「イエスが今も愛し続けている弟子」となります。「今も愛し続けている」と言っても、ヨハネがこの福音書を書いているのは、90歳を過ぎ100歳近くになっていると思われる時です。若かった頃、イエスと一緒に三年間を過ごした11人の仲間たちとも離れ離れになり、恐らく生きている最後の弟子であるとヨハネは思っていたことでしょう。時はトラヤヌス帝(98-117)の時代。クリスチャンであることが密告されれば捕えられる、そういう時代です。そうでなくとも、もう死が近いことを知りながら「最後の仕事」としてこの福音書を書き記しているヨハネは、「あの時からずっと、そして今も、イエスは生きていて私を愛し続けていて下さる」ということを心の奥深くで感じながら、そのことを書き記さずにはおれなかったのでしょう。イエスの話を聞いても悟ることがなく、誰が偉いのかと競い合い、イエスが最も祈ってほしい時に眠りこけ、最後はイエスを捨てて逃げた私を、今にいたるまでイエスはずっと愛し続けていて下さった。ヨハネはイエスの愛に何度も涙があふれたのではないでしょうか。老いても、そのようにイエスの愛を感じられる人は幸いです。老いて、一つひとつ持っているものを失っていったとしても、イエスが自分を今も愛し続けて下さっている。そのことが分かれば、それだけで十分なのです。

 

       わたしの目には、あなたは高価で尊い。 わたしはあなたを愛している。

                                   イザヤ書43章4節

 

□ ヨハネ20章1~10節  愛されている者は知っている

 ヨハネの記憶に残っているのは、誰かによって主の体がどこかに移されたと理解したマリヤが、そのことをペテロとヨハネに告げたということ。二人が見たのはそのままの布でした。このときヨハネはイエスが甦らなければならないという聖書をまだ理解していませんでした(9)。しかし、信じたのです。ヨハネはこう言っているのです。「50年以上前の、過ぎ越しの食事の後、神殿兵士たちにイエスが捕えられ、一晩の内に形だけのたらい回しの裁判にかけられ十字架で殺されるという安息日の前の、目まぐるしく状況か変わっていく中だった。動転して、何が起っているのか誰も把握できなかった。けれども、安息日が明けた朝、墓の中の亜麻布を見て私は信じた。イエスが復活したことを、そして、神の子であることを。このことは、忘れることのできない記憶として、私の中に今も鮮やかに残っている」と。ペテロも同じ光景を見ましたが、信じたのは「ずっとイエスが愛し続けておられる弟子」だけでした。

50年以上前の出来事をふり返った時に、「何故、自分は信じることができたのだろう」と考えたに違いありません。その時、ヨハネはわかったのです。弟子として召されてからイエスと共に過ごした3年間、「主の愛の中にあったこと」を。「主に愛されている」そんな自覚ははっきりとはなかったが、私の心と体と魂は「主に愛されていること」を知っていた。だから、私はあの時、信じたのだと。他の弟子たちは、復活の主と出会って信じました。見て、信じたのです。疑い深いトマスは、傷痕を見せられて信じました。しかし、ヨハネは、そうではない信じ方があると言っているのです。ヨハネは言います。「見ないで信じる者は幸いです。(Jn20:29)」と。ヨハネが信じることが出来たのは、聖書の知識でもなく、理性でもありません。愛されていることを知っていた。それだけです。愛されていることを知っている者は信じるのです。

 

     あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。

                                    ヨハネ 2029

 

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