● 創世記15章1~21節から 「恵みに生きる」 と題して語られたメッセージより
□ 創世記15章1~6節 アブラムの義
アブラムにあった主の言葉は「アブラムよ、恐れるな。」です。エラムの王ケドルラオメルたちの連合軍を打ち破ってロトを救出した後、戦いの強者ではないアブラムは、ケドルラオメルたちの報復を恐れていたのでしょう。主の言葉があったのはそんな時です。「恐れるな。わたしはあなたの盾である。」と…。「私があなたの前に出て盾となるから大丈夫だ。安心しなさい。」との励ましです。それだけではなく、「あなたの受ける報いは非常に大きい」とアブラムに言われます。アブラムは一本の糸も、靴ひも一本さえも自分のものにはしませんでした。それは、ソドムの王に「アブラムを富ませたのは私だ」と言わせないためでした。アブラムは勝利が神からのものであることを証ししようとしているのです。神に栄光を帰す者を神は放っておかないのです。アブラムは言います。「神、わが主よ。私に何をお与えになるのですか。私には、まだ子どもがありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」と。約束の子孫が与えられていないアブラムにとって当然の応答です。その時、主の言葉がアブラムに臨みます。「その者があなたの跡を継いではいけない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」と。そして、アブラムを外に連れ出して「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる。」と言われるのです。「アブラムはこの約束をされた主を信じた。」と記されています。主は、この「主を信じた」ということを「彼の義」とされたのです。これこそ本来あるべき「私との正しい関係」だというのです。信仰によって義とされるとはそういうことです。私の主としてお従いすることを神は求めておられるのです。
□ 創世記15章7~21節 神の真実
信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています(Ro5:1)。これはパウロの言葉です。神との平和を持っているとは、神から離れていた私たちと神との関係が、創造されたときの「神との正しい関係」に回復されたということです。私たちは、相変わらず不完全なままですが、神を信頼して生きていくその心の在りかたを神は良しとされるのです。これが義とされるということです。神は、義とされたアブラムに「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」と、ウルから連れ出した目的を明らかにし、「わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。」との約束を再確認される真実な方です。その言葉に、アブラムは「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」と確証を求めます。主はアブラムに命じられます。三歳の雌牛、三歳の雄やぎ、三歳の雄羊、山鳩とそのひなを用意するようにと。これは契約の儀式です。やがて、日が沈み暗闇になった時、アブラムは深い眠りの中で主の臨在のしるしである「煙の立つかまど」と「燃えている松明」が切り裂かれた動物の間を通り過ぎるのを見ます。裂かれた動物の間を通ることで、もし、契約を破ることがあればこのようになっても構わないという誓いの儀式です。裂かれた動物の間を通ったのは神でした。たとい、契約の相手であるアブラムが不真実であっても、神はその約束を守り通すということを示されたのです。これが、「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」とのアブラムの問いに対する神の答えでした。神はこのような真実なお方です。あなたは、この神を信じますか…。
● 13創世記16章1~16節から 「それでも神の恵みが」 と題して語られたメッセージより
□ 創世記16章1~4節 人間の知恵の愚かさ
アブラムがハランからカナンへと旅立ったのが75歳。今日のテキストは、そのカナンの地に入ってから10年後の出来事が記されています。アブラムが85歳、サライが75歳の時です。約束の子が与えられないアブラムは、当時の法律に基づき、家僕のエリエゼルが跡継ぎになると思っていました(Ge15:2)。まさにその時、主はアブラムを外に連れ出し約束されます。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる。」と。その主の約束にもかかわらず、妻のサライはアブラムに約束の子を産みません。自分の現実に目を向けたサライは、不妊である上に75歳になってはもう無理だと判断したのでしょう。主が胎を閉じておられる。これがサライの最終的な結論でした。夫のアブラムに告げられた「神の約束」と「自らの現実」を天秤にかけ、自分の理解できる範囲で「神の約束」を解釈したのです。サライは決断し、エジプト人の女奴隷ハガルによってアブラムの子をもうけようとします。サライの提案はヌジ文書に記されているように合法的ではありました。しかし、人間的な方法によって神の約束を実現しようとしたことは、結局、人間の限界の中に神を閉じ込めてしまったことになります。神よりも自分を上に置いたということです。人間的な限界を超えて働かれる神を信頼し、「希望をもって待つ」ということができなかったのです。
その結果はどうでしょう。ハガルは自分がみごもったことを知ると、不妊の女サライを「見下げるようになった(Ge16:4)」と聖書は記しています。サライは、ハガルがそうなってしまった責任をアブラムに負わせます。これが人間的な知恵の行き着くところです。しかし、そのことの中にも神は働かれ、着々とご計画を進めていかれるのです。
□ 創世記16章5~9節 どこから来てどこへ行くのか
当時の法律(ハムラビ法典)には、「女奴隷が、子を産んだということで、女主人と同等の立場を取ろうとしたときは、再び奴隷の束縛を与えて奴隷にしてもよいが、他に売ってはならない」と記されています。サライの心を察したアブラムは、ハガルをもとの女奴隷に戻すこともサライの自由だと言います。それで、ハガルに見下げられたサライは、女奴隷ハガルをいじめたと聖書は記しています。いじめは余程ひどかったのでしょう。ハガルはサライのところから逃げようとします。逃げるという言葉barachは「自由になるために逃げる」という意味です。ハガルは、苦しみから逃れることによって自由になろうとします。シュルへの道にある泉のほとりまで来たとき、主の使いが現れてハガルに尋ねます。「あなたはどこから来て、どこへ行くのか」と。この問いはハガルの実存に迫る問いです。
私たちは「過去」「現在」「未来」という時間の流れの中に生きています。この、時間の流れの中にで「自分」を受け入れていく時に、「私」になっていくのです。過去の苦々しい出来事や過去の栄光に心が支配されているとするなら、その人は「過去」に生きています。たとい「消し去りたい過去」であっても、私にしか生きることが出来なかったかけがえのない「私の固有の過去」として引き受けていく時に、初めて今を生きることが可能となります。そして、この今を生きる人が、未来に向かって一歩を踏み出すことができるのです。これは神への信頼がなければ出来ないことです。この時ハガルには神が見えませんでした。ですから、神を信頼することもなく、ただ苦しみから自由になるために現実から逃避しようとしたのです。神を信頼する者は、すべてのことが神の御手の中で導かれていると信じます。そして、未来に希望を持つのです。この時、ハガルは神から失われた存在でした。あなたはどうですか…。
あなたはどこから来て、どこへ行くのか。 創世記16章8節
□ 創世記16章9~11節 苦しみの中で始まる祝福
サライのところから逃げ出したハガルを「主の使い」が見つけます。ここで使われている「見つける」という言葉はヘブル語でmatsa。この言葉は「失われたものを見つける」という意味で使われる言葉です。偶然に出会ったのではなく、ハガルが見つけたのでもなく、主の使いが失われていたハガルを見つけたのです。もう一つ「見つける」という言葉には「出迎える」という意味があります。厳しい現実から自由になろうと逃げてきたハガルは、神の祝福から離れていく失われた存在だったのです。主はそのハガルを出迎えるお方です。この先どう生きるのか分からず、意気消沈し、途方に暮れているハガルに、主の使いは言います。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。(Ge16:9)」と。ハガルにとっては受け入れ難い言葉です。しかし、神のなさることは最善です。その場所が、ハガルにとって「祝福が始まる場所」だったからです。主の使いは、ハガルに祝福を約束します。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。(Ge16:10)」と…。「耐え難い状況の中で祝福が始まる」と言うのです。そして言います「その子をイシュマエルと名付けなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。(Ge16:11)」と。イシュマエルとは「神は聞いておられる」という意味です。主は言葉にならない「苦しみの中からの叫び」を聞いておられると言うのです。サライのもとに帰れば、厳しい状況が続きます。その時ハガルは、「イシュマエル、イシュマエル」と子どもの名を呼びながら、「主は聞いておられる、主は聞いておられる」と心の中で繰り返したことでしょう。主の使いとは、人となられる前の主イエス・キリストです。主は、あなたの心の叫びを聞いておられる方です。そういう方があなたと共におられるということを、あなたは信じますか。
あなたの女主人のもとに帰りなさい。創世記16章9節
□ 創世記16章13~16節 神は見ておられる
この先どう生きていけば良いのか分からなかったハガル。その時、自分に語りかけられた方をハガルはエル・ロイと呼びました。エル・ロイとは、「ご覧になる神」という意味です。ハガルは気づいたのです。苦しみの中にある自分を見ていて下さる方がいる、私の叫びを聞いていて下さる方がいるということに。ハガルは、この「ご覧になる神」を信じて、主の使いの言う通りにサライの所に戻って行きます。その場所で、サライにイサクが生まれるまでの14年間を過ごすことになるのです(Ge21:5)。相変わらずハガルの辛い状況は変わらなかったことでしょう。しかし、主の使いの言葉通りに、身を低くしてサライに仕えていきます。ハガルはもう以前のハガルではありませんでした。ここに、主と出会い、新しく変えられたハガルを見ることができます。
ハガルが見つけられ出迎えられた「泉」は荒野における「いのち」のしるしであり、希望のシンボルです。私を見ていて下さる方がいる。私の叫びを聞いていて下さる方がいる。この方を知る時に、私たちに生きる希望が湧いてきます。苦しみや困難に耐える力が湧いてきます。そして、前に一歩を踏み出す勇気が出てくるのです。このような方を知っているということは何という幸い、何という慰め、何という力でしょうか。ハガルは、自らの高慢さが引き出したサライの攻撃に苦しみました。その苦しみの中で主イエス・キリストに出迎えられ、生きる希望が与えられたのです。状況は大きく変わることはなかったでしょう。しかし、その中で、ハガルと神との関係が深まり、ハガル自身が変えられていくのです。ハガルの子イシュマエルもまた、神に祝福された民となっていきます。この方に迎えられるなら、荒野の中にあっても「泉」に憩うことが出来るのです。これがクリスチャンに与えられた祝福です。あなたは、その祝福の中に生きておられますか。
そこで、彼女は自分に語りかけられる主の名を「あなたはエル・ロイ」と呼んだ。
創世記16章13節
● 13創世記16章1~16節から 「それでも神の恵みが」 と題して語られたメッセージより
□ マタイの福音書1章1節 クリスマスはあなたのために
ダビデやソロモンの時代の栄光はすでに過去のものとなり、ローマの支配下にあるこの時代の人々はイスラエルの再興を願っていました。マタイはそのローマの体制を維持するための取税人、ユダヤ人から見れば売国奴。そのマタイが、ユダヤ人のために書いた福音書がマタイ福音書。アブラハムに始まるイスラエルの歴史がイエスという一点に収斂していることを、そして、アブラハム以来歴史を貫いて連綿と進められてきた神の遠大な計画の総仕上げの時が既に来ていることを、マタイは1章1節でユダヤ人に分かるように端的に述べているのです。マタイにとって、神の計画は完璧でした。この完璧な計画から生まれたイエスの福音を、これから告げようとしているのです。
マタイは、神の救いの計画がイエスという一点に収斂すべく、およそ2000年も前から始まっていたことを悟ったのです。私たちもこのことが理解できれば、同じように、イエス・キリストの生涯のすべてが、その2000年後に生きる私たち一人ひとり向かっているということを容易に理解することができるでしょう。皆さんは「2000年前の十字架がどうして私のためであったのか」と一度は思ったことがあるでしょう。2000年の歴史がイエスに収斂していったように、イエスの十字架は2000年後のあなたに広がっていったのです。いや、あなたに収斂していったと言ってもよいでしょう。私たち一人ひとりの救い、それもまた神の遠大な計画の中にあったのです。あなたの場合も同じです。まだ、聖書の神をご存じない方も、今日、このメッセージを聞いていることそのことが、神の遠大な計画の中にあるのです。イエス・キリストは、あなたのためにお生まれになった。マタイはそのことをこれから語ろうとしているのです。私のためにクリスマスがある。そのことに思いを巡らせましょう。
この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。
みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、
私たちはあらかじめこのように定められていたのです。
エペソ人への手紙 1章11節
□ マタイの福音書1章2~25節 神の完璧な計画
アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。ユダヤ人はこの言葉で心が引き付けられるのです。ナザレのイエスが、旧約聖書の預言どおりアブラハムの子孫としてダビデの家系に生まれたメシヤだとセンセーショナルに語るからです。同時に、この系図はユダヤ人には受け入れ難い系図でもありました。それは、ソロモンの血をひく受け入れ難いエコニヤがこの系図に中に記されているからです。当時のユダヤ人のラビたちは、エコニヤを先祖にもつならメシヤの資格はないと考えていました。その理由はこうです。ソロモンの妻たちが持ち込んだ偶像はイスラエルの民を神から奪いました。ヨシヤはその偶像をイスラエルから取り除くという宗教改革を推進しましたが、孫のエホヤキン(エコニヤ)が王位に就いた三か月後、二度目のバビロン捕囚によってダビデ王朝は終わるのです。そのエコニヤについて、預言者エレミヤは「エコニヤから生まれる者からは、ダビデの王座に着く者は出てこない。(Jer22:28~30)」と預言します。これが一世紀のユダヤ人ラビの常識でした。
しかしマタイは、イエスの父親であるヨセフがソロモンとエコニヤを子孫にもつことを系図に記しています。このソロモンとエコニヤの血を引くヨセフからメシヤが生まれるためには、ヨセフとイエスとの間に血のつながりがないことが証明されなければなりません。ですからマタイは、当時の常識でも誰一人として考えもしなかった処女降誕を大胆に確信をもって記し、ナザレのイエスが法的に王位継承者として妥当であるということを記しているのです。ここに処女降誕の必然性があります。これは、ユダヤ人に対する挑戦といっても良いでしょう。私たちも、同じような挑戦を受けているのです。神は、私たちの予想や常識を超えて計画を成し遂げる方です。あなたは、そのような神を信じられるでしょうか…。
神にとって不可能なことは一つもありません。
ルカの福音書 1章37節
□ マタイの福音書1章1~17節 クリスマスはあなたのために
ユダヤ人がこの系図を受け入れられない理由がもう一つあります。それは、この系図の中に四人の異邦人女性が記されているからです。更に受け入れ難くしているのは、四人とも性に関わるスキャンダルがあることです。そのような異邦人の女性を系図に入れるなど、ユダヤ人には考えられないことです。3節のタマルは遊女になりすまして義父のユダをだまして子をもうけました。ヤコブ一族の歴史に汚点を残したと言えるでしょう。5節のラハブは遊女でした。ルツはモアブ人、そのルーツはロトにまでさかのぼります。ロトの娘が父にお酒を飲ませてもうけた男の子がモアブです。そこから出たモアブ人は性的に乱れており、その後の歴史の中でユダヤ人を何度も誘惑します。6節の「ウリヤの妻」と記されているのはバテシェバ、ダビデとともに姦淫の罪を犯した女性です。そういう女性たちを系図の中に敢えて記している理由はただ一つです。ユダヤ人が忌み嫌い排除する、このような血筋の真っただ中に、救い主イエスが誕生したということをマタイは大胆に告げているのです。
異邦人や汚れた者は、神殿で礼拝をささげることすら出来なかったユダヤ社会において、彼らは神から最も遠く離れている者たちでした。かつて取税人であったマタイは、そのことが痛いほど分かっていたに違いありません。だからこそ、聖なる神に近づくなど到底考えることのできない異邦人にも、如何なる罪を犯した者にも救いがあるということを、系図というユダヤ人の伝統の中に、マタイは挑戦的に記しているのです。救い主イエスは、ユダヤ人には受け入れることのできない負の過去を背負ってお生まれになりました。自らの過去をふり返って、私は神から遠く離れていると胸をたたいて悲しむ者、その者のために救い主イエスがお生まれになったのです。あなたは、このイエスと無関係でしょうか。
取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて
言った。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」
ルカの福音書18章13節
□ マタイの福音書1章18~25節 今、イエスはあなたとともに
アブラハムから始まる神の遠大な救いの計画は、イエス・キリストの十字架上の死によって完結されました。アブラハム契約の中心である「わたしは彼らの神となる(Ge17:8)」との約束が、イエス・キリストによって私たちに永遠にもたらされたのです。「あなたの神になる」とはどういうことでしょうか。アダム以来、人間は、神から離れた存在です。聖書はこれを「失われた存在」と言います。ユダヤ人も私たち異邦人も、人間は、自らを創造し存在させておられるまことの神を知らずに、いや、知ろうとせずに神に背を向け、ある者は石や木で作った神々を拝み、またある者は自らを神として、闇の中を彷徨っていました。そのような者に、アブラハムの子孫であるイエス・キリストが、私たちと神との関係を回復するために与えられました。それがクリスマスです。神から離れている私たちは、やがて人生の総決算をする時が来ます。その時に「神との永遠の断絶」が宣告されます。この宣告をイエスが十字架で先取りされたのです。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。(Mt27:46)」との叫びが、最後の宣告を私たちに代わって受けられた証拠です。
失われていた神との関係を回復する道がここに開かれたのです。あなたがそのことを信じるなら、今、神の国に迎え入れられるのです。それだけではありません。復活し昇天したイエスが、聖霊によってあなたの内に今も生き続け、あなたは日々新しくされながら、希望をもって生きることが出来るのです。これこそ「良き知らせ(福音)」です。神の国には、イエスが共にいる。これがマタイ福音書のテーマです。マタイ福音書は、インマヌエルに始まり(Mt1:23)、インマヌエルに終わります(Mt28:20)。インマヌエル。それは希望の言葉です。あなたは信じますか。
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、
神の子どもとされる特権をお与えになった。
ヨハネの福音書1章12節