● 創世記13章1~18節から 「懇願される神」
と題して語られたメッセージより
□ 創世記13章1~18節「懇願される神」
不信仰のゆえに失敗したにもかかわらず、神はアブラムにご自身の誠実を尽くされる方です。その神の取り扱いを受けたアブラムは、エジプトを出て以前に築いた祭壇のある場所に行き、そこで主の御名によって祈ります。アブラムは神との交わりを回復し再び神を呼んでいます。しかしここでもまた問題が起こります。その問題を避けようと、アブラムはロトとの別離を決意します。別れるに当たって、ロトはよく潤ったヨルダンの低地全体を選び取り、アブラムには荒野が残されます。甥のロトを失い、「あなたの子孫に与える」と神がお見せになった土地を失ったかに見えたその時です。自分から一つひとつ鎖が切り離されていくような人生の場面と言えるでしょう。この時に神がアブラムに現れるのです。私たちの確信が揺らいでいる時、希望を失い落胆している時に、神が私たちの方に近づいて約束を思い起こさせ、励まして下さるのです。
神は、心が沈んで下を向いていたアブラムの目を上げさせようとします。14節の「さあ、目を上げて」の「さあ」と訳されている原語の意味はpleaseです。神の約束が遠のいていくかに思えるその時に、神が「アブラムよ、お願いだから、お願いだから私の言うことを聞いておくれ」と、もう一度約束に立つことができるように励まされるのです。アブラムは、相変わらず自分のものにならないその土地に住みます。ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て、そこに主のための祭壇を築いて住むのです。ヘブロンという名は神の友という意味です。そしてこのマムレの樫の木は、シェケムのモレの樫の木と同じようにカナン祭儀の中心となるご神木です。アブラムはここに天幕を移して、偶像礼拝の真っただ中で、約束を信じ、神を友として歩んでいくのです。私たちクリスチャンの生き方がここにあります。
● 詩篇51篇5~18節から 「悲しみからの創造」 と題して語られたメッセージより
□ 詩篇51篇5~18節「それ以外にはない」
ヘテ人ウリヤの妻バテ・シェバと一夜を過ごしたダビデに、バテ・シェバが身ごもったことが告げられます。そのことを知ったダビデは、全てのことを隠ぺいしようと戦地からウリヤを呼び寄せ、言葉巧みに妻と一夜を過ごさせようとします。しかし、ウリヤが家来たちと寝床をともにしたことを知ると、「ウリヤを激戦地で死なせよ」と記した指揮官ヨアブへの手紙を、忠実なウリヤ自身に持たせるという恐ろしいことをします。ウリヤの死後、ダビデは何事もなかったかのようにバテ・シェバを王宮に迎えるのです。暗闇の出来事が闇に葬られようとしていた時、預言者ナタンが真っ向からダビデを告発します。姦淫、殺人、偽証、これが律法に対するダビデの罪状です。その時のことを詠ったのが詩篇51篇です。
ダビデは、律法に対する表面的な罪の行為を悔いるのではなく、その奥底にある自らの意思ではどうすることもできないほどに腐敗しきった自己を洞察してこう言います。「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」と…。自らの行為を「存在の次元」で見つめなおしたダビデは、そのような自分がきよめられるためには、古い自分が葬られ、新しい自分が創造される以外にはないと気づくのです。きよめられるとは、単に罰が赦免されるということでも、今の自分の中にきよさが増し加わるということでもありません。ダビデは10節で、きよい心が創造されるように(神がつくり出す時に使われるbaraというヘブル語が使われています)、つまり、自らの中には全く無いものをつくって下さいと詠い、「ゆるがない霊」が新たに授けられることを求めるのです。人は、聖霊によってのみ、きよい者として新しく創造されるのです。人が新しくなるにはそれ以外にはありません。