● 第Ⅰ列王記19章1~18節から 「Chariots of Fire」 と題して語られたメッセージより。
□ 第Ⅰ列王記19章1~3a節 アイデンティティーを喪失した時
エリヤがバアルの預言者たちに大勝利したことを聞いたイゼベルは、怒りに燃えて言います。「もしも私が、明日の今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちの一人のいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように」と。それを聞いたエリヤは「恐れて立ち自分のいのちを救うために立ち去った」と記されています。偶像に惑わされている民のために果敢に戦ったエリヤに何があったのでしょう。エリヤは見たのです。それは、劇的に回心した民ではなく相変わらず神とバアルに二股をかける民でした。この時、エリヤの心は恐れではなく報われない空しさで一杯になっていたに違いありません。原文は「彼は見て立ち」です。自らの存在意義を見出せなくなったエリヤは、自分のいのちのために立ち上がったのです。「いのち(nephesh)」という言葉は、生物的な命というより霊的な存在を表す言葉です。そして、「立ち去る」という言葉がアブラハムやモーセが信仰によって出ていく時の言葉であること、「救う」という言葉が原文にはないことなどを考えると、エリヤは恐れて自分の命を救うために立ち去ったのではなく、報われずに落胆した自らの魂のために旅立ったということが分かります。8節に、「歩いて神の山ホレブに着いた」と記されています。エリヤは、明らかに自分のいのちのためにホレブに向って旅立ったのです。そこはモーセが神から律法を授かった場所です。エリヤは、神の取りあつかいを受けるためにそこに向かったのです。私たちも、戦いに勝利したにもかかわらず、空しさしか心に残らない時があるかも知れません。自らのアイデンティティーが失われていくそんな時、神のところに戻らなければならないのです。私たちの魂を取りあつかうことができるのは、私たちにいのちを与える神だけだからです。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。 マタイ11章28節
□ 第Ⅰ列王記19章3b~8節 再び力を与える神
べエル・シェバまでやってきたエリヤは、若者を残してたった一人で荒野へと向かいます。一日の道のりを歩いてエニシダの木のところにたどり着いたエリヤは、その木陰で死を願ってこう言います。「主よ。もう十分です。私のいのちを取って下さい。私は先祖たちにまさっていませんから。」と。それは、「私のようなものは存在する意味がありません。私には預言者としてあなたに仕える資格はありません。そして、力も もう残っていないのです。」という、心の奥底からの叫びでありまた祈りです。
心身ともに疲れ果て、眠りについたエリヤに一人の御使いがさわって言います。「起きて、食べなさい。」と。見ると、エリヤの頭の所に焼け石で焼いたパンと水の入った壷が置かれているではありませんか。眠っている間に、御使いが食事を用意していたのです。「さあ元気をお出しなさい」との労わりと励ましの声が聞こえてきませんか。エリヤは食べて飲み、そしてまた体を休めます。エリヤが十分に休息をとった頃、主の使いがもう一度戻ってきて彼にさわって言います。「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから…」と。主の使いはエリヤがどこに行こうとしているのかを知っているのです。エリヤは「起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。」と記されています。御使いに取り扱われたエリヤの心の内から、再び前に進む力と勇気が湧いてきたのです。神は、ご自分のために労した者を決して見捨てることなく、優しく包み込むように取り扱われる方です。神からエリヤに遣わされたこの主の使いとは受肉前のキリストです。この方は、私たちがどこに行こうとしているのかを知っておられ、私たちが眠っている間に必要を備え、前に進む力を与えて下さる方です。主の働きに遣わされて行くあなたに、今日も「大丈夫だ、私はあなたとともにいる。」と力強く語りかけておられるのです。
見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。 マタイ28章20節
□ 第Ⅰ列王記19章9~12節 神の声は静けさの中に
ホレブに着いたエリヤは洞穴に入って一夜を過ごします。そこに、「エリヤよ ここで何をしているのか」との主の言葉があります。「預言者であるお前はこれから何をしようとしているのか」との、自らのアイデンティティーを再確認させようとする呼びかけです。エリヤは答えて言います。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」と。偶像から主に立ち返るようにとイスラエルのために戦ったエリヤにとって、そのイスラエルの人々からいのちを狙われるということは、自らの存在意味を見失うほどのことでした。エリヤの心境を言い表すなら、「私がしたことを、理解する者は一人もいませんでした。私は一人です。」ということでしょう。そんなエリヤに、主は仰せられます。「外に出て、山の上で主の前に立て。」と。言われるまま外に出たエリヤの前を、「主が通り過ぎられた」と記されています。「主が通り過ぎられた」とは主の臨在を表す言葉です。その時、激しい大風が山々を裂き岩々を砕きましたが、その大風の中にも、風が吹き去った後に起こった大きな地震の中にも、地震の後に起こった火の中にも主はおられませんでした。これらはみな主の臨在の証拠とされていたものですが、そこに主はおられなかったのです。しかし、激しい自然現象の後の「静けさ」の中に主の御声が聞こえてきたのです。「エリヤよ ここで何をしているのか」と。同じ問いかけですが、静けさの中に聞こえてくる主の声がエリヤの心の奥深くに届き、エリヤは神の臨在を知るのです。大きなしるしの中にではなく、静けさの中に神の声を聞いたのです。
イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。
マルコ1章35節