君は何のために学ぶの?
私たちは何のために学ぶのでしょうか。人生を左右すると言ってもよいこの問いに対してあなたはどう答えますか。このことが若い時に明確になると、学びの質が変わってきます。あなたが学ぶのは大学に入るためでしょうか。それとも、将来、望みの職業に就くためでしょうか。勿論、これらのことはあなたが学ぶための動機となることでしょう。しかし、これらが、あなたが学ぶことの目標だとするなら、望むような成績を取れない人は挫折し失望することでしょう。そこから立ち上がっていく力が出てこない人もいるかも知れません。そして、大学を卒業する頃には学ぶ目標が失われていることになります。もしかしたら、「学ぶ」ことをやめているかも知れません。「学ぶ」とは、そういう質のものでしょうか。
「何のために学ぶのか」という問いは、「私は何のために生きるのか」という問いを抜きにして考えることは出来ません。なぜなら、「生きる」ということは、必ず何かを「学ぶ」ということに通じるからです。あなたの中に「何のために生きるのか」が明確になっていく時に、あぶり出しで文字が浮かび上がるように、「何のために学ぶのか」が見えてくることでしょう。では、人間は何のために生きるのでしょうか。宗教改革者のカルヴァンは、人生の主な目的は「神を知ることだ」と言っています。それだけではありません。人間の最上の幸福も「神を知ることだ」と言っています。あなたを創造し、あなたを今も存在させておられる「生きて働かれる神」を知ることが、あなたの人生の目的であり、あなたの幸いだというのです。
何故、神を知ることがそれほど大切なのでしょうか。預言者エレミヤは、「神は、私たちの将来に平安と希望を与える計画をもっている方だ」と神のメッセージを語っています。神を知る時に、今ははっきりと分からなくても、将来において祝福される「自分の人生」をしっかりと見据えていくことが出来るのです。この時に初めて、「何のために学ぶのか」という問いの答えが本当の意味で見えてくるのです。
大切なことは、このような神を畏れるということです。神を畏れるということから、神を知るということが始まっていきます。あなたの人生が祝福されたものとなりますように。
主を畏れることは知識のはじめである。 旧約聖書 箴言1章7節