● 創世記17章1~節から 「全きものであれ」 と題して語られたメッセージより
□ 創世記17章1~6節 わたしは全能の神
アブラムが、主が告げられたとおりにハランを旅立ったのが75歳の時でした。子孫を祝福すると言われても一向に約束の子が与えられないアブラムは、サライの人間的な知恵でイシュマエルを得ます。それから13年が経ちアブラムは99歳になっていました。ハガルは、イシュマエルの成長に喜びを感じながらもサライとの緊張関係の中にいたことでしょう。一方、子を産むことができない屈辱感と敗北感をもつサライ。二人の間で葛藤するアブラムを考えるなら、アブラム一家に心からの笑いはなかったのではないでしょうか。そんな13年という年月が過ぎ、跡取りはイシュマエルでよい。そう考えるようになったに違いないアブラムに、神は臨まれたのです。その冒頭の言葉は「わたしは全能の神(エル・シャダイ)である」との宣言です。不妊の妻サライと自分との間に子どもが与えられるなど、到底考えることができなくなったその時に、24年間の沈黙を破って、アブラムに再び神があの時の約束を携えて現れたのです。
全能の神の言葉は、「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」との命令でした。「全き者」とは、道徳的・倫理的に完全であるということではありません。すべてのことを「主なる神との関係」の中でとらえて生きよということです。アブハムの霊的な子孫である私たちにも、同じように「神との関係の中に生きよ」と命じられています。アブラムのように欠けの多い私たちですが、そのように生きることができるから「生きよ」と命じるのです。アブラムのように、神が劇的にあなたに現れることはないかも知れません。何事も起こらず、神が沈黙しているかに思える時があるかも知れません。しかし、神はまどろむこともなく、眠ることもない方です。その神が「私はエル・シャダイ。あなたを祝福し、養う神だ。全き者であれ。」と、あなたに語っているのです。すべてのことが神から出ていることを覚えて生きる。これがクリスチャンの生き方です。
主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。詩121:3~4
□ 創世記17章7~8節 あなたは全き者であれ
「全き者であれ」とは、全能の神にのみ頼るものであれということです。全き(tamim) と言う言葉は、創世記で二回使われています。もう一ヶ所は6章9節の「ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」という箇所です。全き人とは「神とともに歩む人」です。神を抜きにして自分の判断で自分の道を歩むのではなく、「私を見ておられる神」「私の叫びを聞いておられる神」がともにおられることを覚えて、すべてのことを「神との交わり」の中でとらえて生きる者です。このことは神の導きの中にあることだろうか、このことは神が私に求めていることだろうか。そう考えながら、神が私を通して生きているように、私と神が一つになっていく人です。
社会で生きていく時、理不尽なことがたくさんあります。不当な扱いをされることもあるでしょう。そんな時、相手に対する否定的な思いが私たちを支配しそうになります。そのような屈辱感や悔しさの中にあっても、神に顔を向け神と一つになっていくなら神の声が聞こえてくるのです。「悪に対して悪で報いることをせず、かえって善をもって報いなさい」と。相手に支配されるのではなく、神が私に誠実を尽くされたように、私もあの人に誠実を尽くしていこうと、神の言葉に支配されていく生き方、これが「神の前を歩む全き者」の生き方です。
あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。この言葉を聞いて平伏したアブラムに神は語ります。この契約は「わたしの契約」であり「わたしとあなたの間に立てる永遠の契約」であると。アブラムとの契約は、アブラムの子孫である私たちとの契約でもあります。その契約の中心は「わたしが、あなたとあなたの後の子孫の神となる」ということです。アブラムの神となった全能の神は、アブラハムの子孫であるあなたの神でもあるのです。あなたは、そのことを信じますか。
わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、
そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。
わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。 創世記17章7節
□ 創世記17章9~14節 応答を求める神
神は誠実な方です。契約を破るなら私がこのようになってもよいと、裂いた動物の間を通ったのは神でした。その神が「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。(Ge17:9)」とアブラムに仰せられました。アブラムに与えられた契約は、アブラムが守らなければ成立しないような契約ではありません。そういう意味で、神の一方的な恵みの契約です。しかし、この契約は「全き者であるアブラム」の応答がなければ成立しない契約です。誠実に契約を守られる主は、信仰をもって応答せよと言われます。神に誠実に応答しなければ「わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となる」という契約の意味がなくなってしまうからです。
神がアブラムに応答として求めたのは「契約のしるしとしての割礼」でした。この時すでに周辺の国々で通過儀礼として行われていましたが、神が命じた割礼には、子孫を残すための器官を血を流すことによって聖別するという意味がありました。これが、イスラエル民族にとっても神にとっても重要なしるしとなるのです。アブラハム契約の中心は7節の「あなたの神になる」ということですから、アブラムは、契約のしるしである割礼の傷跡を見るたびに、主の一方的な恵みの契約の中に入れられていることを思い起こし、「神は私の神だ、そして、私は神の民だ。」ということを心に刻んだのです。
では私たちにとって想起すべき契約のしるしとは何でしょうか。それは洗礼です。洗礼を受けたキリスト者は「神が私の神になり、私が神の民になった」ということを、洗礼というかたちで表したのです。そのことを忘れてはいけません。イスラエルの民が、割礼の傷跡を見る度に「神は私の神だ、私は神の民だ」と心に刻んだように、あなたの洗礼の日を想起し、あの時から「神は私の神になり、私は神の民になったのだ。」と再び心に刻み、今日この礼拝から出て行こうではありませんか。
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
イザヤ書41章10節